飛英は哀しい 『飛英は哀しい』久しぶりの創作です。短編です。支部にもあげました。支部は最近はとうらぶばっかあげてます。そっちもよろしくお願いします。飛英(ヒエイ)とは散る花びらのことです。お姉さま大好きな高速戦艦とは関係ないので悪しからず。-------------------------------------------【注意】・腐向け・男性同士の性描写(R-15くらい)があります。↓以下本文です。------------------------------------------本を長らく無二の友として参りましたが、どうにも、巷でよく売れるような感動の嵐だの誰其れも泣いただのと謳われる話は苦手でした。その哀しさとやらを数日は引きずってしまうたちなのです。風呂に入るのも、飯を食うのにも、布団に入るにつけても、ずっとそれを持ち込んでしまう。酷いときには夢にまで出て魘されて飛び起きる位いなのでした。ですから、平穏な睡眠のために、ひいては健やかな心持ちを常としたいがために、犬の話やら生き別れの親子の話やらとは距離をおき戯れた話ばかりに溺れていきました。そうしますと最初は本の引用から、次は昨日の体験談。「お隣に、嫌な爺いが住んでいてね。商店で出くわしたんだ。僕が安売りの柿を持っていたのを見た爺いが物欲しそうな目をしていたもんだから、譲ってやったんだ。爺いは『感心、感心。』みたいなことを言っていた。その柿はみぃんな、渋柿だったっていうのにね。」こんな下らないことを話していました。次第に創った話や咄嗟の機知を扱うようになり、話上手、お喋り上手の盛り上げ上手とやたらかぶった三上手の肩書きをいただいて、私はクラスでも引っ張りだこの人気者に成りました。私が口を開くのを餌を待つ鯉のごときに今か今かとそわそわ群がる者達は皆滑稽で、『あたくしが聴いてさしあげてよ』とばかりに尊大であるのもまたこの上なく滑稽で、滑稽の極みで、「あなた方はユーモアをみんな身に付けていらっしゃいますものですから、僕も毎度、脳みそを絞って話しているのです。気苦労が絶えませぬ。」などとわざとらしく額をぬぐうのは謙遜からではありませんでした。クラスメイトを馬鹿にしていただけ。馬鹿なクラスメイトはそれに気付かず、やんややんやと下手くそな拍手をくださるのでした。私が下手くそな拍手に礼の動きを合わせているのを、チラリ横目にする男子生徒が居ました。保志(やすし)とかいう音の軽い名前に似合わぬ下がり眉を覚えています。彼はよく、私の話を教室の隅の席で耳を凝らして聴いていました。肩が震えているのです。隠そうと堪えているけれど、だめでした。彼は大抵窓の外を呆けたように見つめたふりをして聴いているのですが、今日は鶴を折りながら聴いているのでした。にわかに気になりました。クラスの一人が気がついて聞いたのですが私が聞くには少し遠くて、知らずじまいでした。学校が終わり、帰り道。さっきまでたいそうひどい夕立でしたので、たくさんの傘が咲いていました。鏡のような水溜まりが時々波打って、まだ風が強いのだとしみじみ感じました。ほとんど家についた頃でした。地面に大きな傘の花が一輪。あの保志が、道端に座り込んでうつ向いていました。見ると目の前には水溜まりに遊ぶ鶴がたくさん居ました。どうやら転んだのか何かの拍子に落としてしまったのでしょう。鶴は雨粒が作る波紋に乗って、くるくると廻っていたり、他方で沈んでいたり、動きもしないものもまたありました。保志の涙でグシャグシャになっていくものもありました。何故でしょうか。ここで私は彼に声をかけてしまったのです。静かに声を殺して泣く保志と、傘と、濡れる鶴とがあんまり美しい絵であったせいです。哀しみを嫌う私からぬ行動で、これはきっと運のつきでした。保志を私の家へ連れ込み、聞いたたどたどしい話によると、彼は父と早くに死に別れたため母子家庭かつ一人っ子で、母は病で倒れていて、そのせいもあり再婚できなかった。今は自宅で寝込んでいる。母と保志の内職の少ない賃金で糊口を凌いでいる...あの鶴は母の快癒祈願に千羽鶴を折っていたけれど、水溜まりに落としてダメにしてしまった。そういうことでした。私はここにいたってようやく、しまった。と思いました。いけない、忌避し続けてきた哀しいことを聞いてしまいました。じわりじわり涙の膜が張ってきました。私と共に話を聞いていた姉なんかはもうボタボタと涙と鼻水と垂らしていて、ちり紙をちんちんとひっきりなしに使っています。保志もその感に当てられてか哀しい供述のためか一度引っ込めた涙をまた流していました。鼻の頭がたいそう赤らんでいます。「お兄様が、ここの隣でお医者を営んでいます。そこにあなたのお母様を入院させるというのは、どうかしら。」姉がとんでもないことを言いました。保志も「そんな、ご迷惑を」と慌てています。私も「姉さん」と嗜めるようにいいました。生き物の面倒を最期まで見る責任を背負うことは、また新しい哀しみを生むのです。「そのお申し出は本当に、とっても嬉しいのですけれど、僕んちにはお金がないのです。よしんば出世払いとしていただいてもきっと、返す見込みが無いのです。ですから」掠れた声で保志は、俯きながら言いました。私はその姿にまた数日は心を傷めることになるな、とどこか冷静に、だけど焦っていました。「でしたら、うちで働いていただけないかしら。」姉だけが空気を読まぬ、天女のような提案をしでかしました。たしかにうちはもうすぐ親戚の集まりがあって、手が足りないところでした。それに、兄が医者なことから想像がつくかもしれませんがうちは結構な名家で、お賃金もその辺の内職やらお仕事とは比べ物にならぬほどなのは地元で有名でした。面食らった保志は少しの間ものも言えませんでしたが、感謝の言葉と返事をして、大慌てで家へ支度をしに帰りました。保志はうちに住み込みで働くことになりました。話を聞いた私の父母がいたく同情し、感涙に咽び、仕事で疲れた保志を一人誰もいない家に帰すのは可哀想だ、いたたまれない。そう言ったからです。私は賛成でした。保志が今よりも哀れになってしまっていたとしたら、私はもう学校にいくのすら、辛くなってしまっていたでしょう。保志と顔を会わす回数はどうせ減らないので、その方が気が楽でした。保志に宛がわれたのは彼の母が入院している病院に一番近い小さな部屋でした。裏の戸口のすぐ横です。夜ご飯を済ませるとすぐに、母に会いに行っているようでした。私はこれで、安心して暮らせるとそう信じておりました。皆が幸せに、馬鹿みたいに笑って終われると。親戚の集まりは一昼夜行われました。哀しい話が有るわけでもないのですが、逆に面白い話が陽気に交わされているわけでもなく、ウチの娘は今年で幾つです。ヨロシクだの俺の若い頃はだの、女の乳はこのくらいの大きさがたまらぬだの、まあそういった下らない話ばかりでたいそうつまらなかったので、私は挨拶も済んだし、と部屋へ帰ることにしました。親戚の集まる大広間は料理を温かいうちに運ぶために厨の直ぐ側で、その厨は食材の搬入のために比較的裏口の近くで、私の部屋は裏口とは反対でした。つまり、私が部屋に帰るには保志の部屋の前を通らねばならないのでした。そうして、障子に写る影に、時おり聞こえる規則的なパンパンという音に、寝台のきしむ音に、荒い呼吸音に、何故大広間を出てきてしまったのだろう、と深く後悔しました。思えば宴の席で一度も、保志が食事を運んだりお酌をしているのを見ませんでした。それでも、気のせいであってくれと祈りながらそっと障子を傾けると、本当に可哀想な光景がありました。犯されていました。犯していたのは私の従兄弟の一人でした。恐らく、私が彼が昨年落ちた学校に合格したことの腹いせ、いや、そんなことはどうでもいいのです。保志は、本当に、本当に可哀想なことに。せめてもの救いは大広間の側の部屋だった事でしょうに、今の今まで誰も、誰一人気づかなかったのです。或いは、気づかないふりを。保志はぐったりとして、置物のように動きませんでした。嫌な汗がたまに伝っていて、それは肉が打ち付けられている腰や太ももに落ちていきました。手首は固く縛られていて、口には湿った布が詰められていました。本当に可哀想な光景に私は気圧されて、そっと大広間から頼れる大人、すなわち父を呼ぶことしか出来ませんでした。その晩、窓辺から細い月が見えました。やけに肌寒い夜でした。「抱いて」私の部屋に忍んできた可哀想な保志は言いました。濡れそぼり張り付いている長い睫毛が、乱れた浴衣からはみ出た白い肩の線が、そこについた汚い朱の花弁が、ふるふると震えて私の情欲と苛立ちと、そして度の過ぎた同情心とを燃やしました。その身のあまりの哀れさ、愚かさ、健気さを引っ掻いてしまいたくて無性に耐えきれなくなりました。また、自分をぶん殴りたい気持ちにもなりました。引きずってしまうたちなのです。酷いときには夢にまで出て魘されて飛び起きる位いなのです。ならば近づけなければ良かったのです。衝動は今更止まりませんでした。かき抱けば、止まるというのでしょうか。私は保志の方へ体を傾けて赤い目元を指で優しく慰めてやりました。保志は目を瞑りました。私も眼を瞑りました。みんな遅かったのでした。気がつかないと言うこともまた罪なのでした。その重みはたいそうゆっくりと感ぜられるのです。或いは死ぬと言うことかもしれません。いえ、きっとそうなのです。泡立つ波面のように、静かに布団へ沈むのを、きっとあの鶴達だけが予期していたのでした。 [0回]PR